光あるうちにー3.自由の意義①

 「キリスト信者になってしまったら、窮屈でしょう。わたしは自由に生きることができなくなるから、信仰はご免です」という人が、たくさんいる。「自由に生きる」とは一体何なのか。わたしたちは、本当に「自由」に生きているのか。そんなことを少し考えてみたいと思う。
 わたしには長いこと、ギブスベッドに絶対安静を強(し)いられていた日々にあった。寝返りをすることもできず、食事は胸の上に膳を置いて、手鏡でそれをうつしながらとり、洗面も排便も、読書も書くことも、一切が仰臥のままであった。
「さぞ、不自由でしようね」
 わたしは満7年、そのベッドに臥(ね)でいたが、その間何百回となく、人々にこう言われた。確かにそれは不自由だった。しかし、体の不自由な人々は、ギブスベッドに臥ている人ばかりではない。世には手の不自由な人、足の不自由な人、目の不自由な人、口の不自由な人、耳の不自由な人と、実に色々な形で不自由な人がたくさんいる。
 だが、この肉体の不自由さは、人間として断じて恥ずべきことではない。人間として恥ずべ不自由はほかにある。今はいろいろな意味で自由な時代ではあるのだが、わたしたちは、本当に自由に生きているのだろうか。

 わたしの知っている人に、酒は飲みたければ朝からでも飲み、旅行したい時にはふらっと出かけ。外泊しても、家には何の連絡もしない人が居た。妻が苦情を言うと、「俺は自由が好きなのだ。一々俺のすることに文句を言うな」と、どなりつけた。
 ある娘が、妻のある男と恋仲になった。その娘に親が忠告すると、彼女は言った。「誰を好きになろうと、わたしの自由でしょ。放っておいてよ」。
 ある息子は、月給のほとんどを飲酒代に使ってしまった。母親が叱ると、彼はうそぶいた。「自分の働いた金を、何に使おうと俺の自由じやないか」。
 これらの「自由」は、守られねばならぬ「自由」なのだろつか。二千年の昔、既に聖書にはこう書いている。「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由を悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい」
 自由と放縦とはちがうし、わがまま勝手ともちがう。人間の持つべき自由は、決して前述のような無頼なものではない。
 わたしたちは、ここまで考えて来て、自分は自由人であると、確信を持って言いきれるだろうか。先に、手、足、目、耳、口の不自由な人がいると書いたが、健康な体であるわたしたちこそ、実はまことに、手も足も、目も耳も口も、実は不自由な人間なのではないだろうか。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です