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コンスタントに書き続けたいと思うのだけれど…

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 このホームページは、自分の思いとしては毎日でも記事を書いていきたいと思うのだけれど、なかなか続かないんですよね。どんな記事を書いていったらいいのか、いまいち決まらないんですよね。困ったものです。  日頃の生活で気づいたことや教会の出来事などを、コンスタントに書いていけばいい事なんだけれど、それがなかなか続かないので困っています。こういうことも、習慣付けが必要なんだと思うのですが、それがまだ身についていないんですね。でも、このホームページを大切に育てていきたいと思っているので、努力をしたいと思っているんです。  私は牧師ではあるんですが、今年で70歳を迎えることもあって、意識的に体を動かして行く必要があると思って、鷹栖町の高齢者事業団や旭川のまごころサホーターの会員にもなっているのです。その関係で、除雪作業とか草取りとかで、体を動かすことをしています。そんなこともあって、毎日を結構忙しくしているのですが、だからといって、ホームページの記事が書けないほどでは全然ありません。  要は「習慣の問題」だと思います。できるだけ、意識して記事をアップしていきたいと思います。  頑張りますので、時々は見に来て頂けると嬉しいです。     続きを読む

光あるうちにー3.自由の意義②

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 先ず目から考えてみよう。 わたしたちの目は、まことに不自由なものではないだろうか。人をそんな目で見てはいけないと思いつつ、思わず突き刺すような目で見たり、女の子の足に目をやるまいとしても、ついちらりちらりと目が行ったりする。なかなか自分の思いどおりに目は動かないものだ。 わたしは元来目つきが悪い。ぎょろりとした目で人を見ているらしいのだ。自分としては好意に溢れ たつもりの時でさえ、不愛想に人を見ているらしい。 また、よいものを見ようとしても、なかなかそうは行かない。机の上に週刊誌と教科書が並んでいる場合、学生たちは、先ずどちらを見るだろう。わたしたちの目は、わたしたちの思いどおりにはならないものなのだ。もし一日でも、自分の目を自由に使える人間がいるとしたら、それはもう大した人物と言えるだろう。  次に口。 これもまたまことに不自由なものだ。「ハイ」という言葉すら、わたしたちは満足口言えない口を持つている。キリストは、 「然りは然り、否は否と言いなさい」 と教えているが、「ハイ」と「イイエ」をハッキリ言えとすすめたものである。夫に対して、わたしたちはどれほど素直に「ハイ」と答えているだろうか。夫族にしても同じである。「イイエ」という言葉が言えないばかりに、「どうです、今日帰りに一杯飲みに行きませんか」という言葉に誘われて、つい午前様になったりする。 また、わたしたちは、自分が悪かったと思っでも、なかなか、「ごめんなさいね」と言うことができない。この言葉一つでも、すらすらと思いのままに出すことができたら、人生の達人であろう。 ある時、国鉄の列車の中で、一人の人が暴力団員に因縁をつけられ、ゆすられ、殴られていた。だが、その列車に乗り合わせた男たちは、誰一人、その暴力団の男に、「よしなさい」と言えなかったという。これぞ正に言う気(勇気)のない話である。 「はい」「いいえ」「ありがとう」「ごめんなさい」「すみません」を、日常、自由自在に使える人間が果しているであろうか。いるとしても甚だ稀であるにちがいない。それほどわたしたちの口は不自由なのである。そのくせ、酒は節しようとしても口に入り過ぎ、食べ過ぎまいとしても、大食してしまうという次第である。 新約聖書のヤコブの手紙3章に、「もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。舌を制し得る人は、ひとりもいない。それは制しにくい悪であって、死の毒に満ちている」とある。  全くわたしたちは、「あっ、しまった」と、失言を悔やむことがどれほど多いことだろう。あんなことを言わなければよかったと、くよくよ思いなやむことがどれほど多いだろう。  わたしたちの口は、今まで、どれほど多くの人を傷つけて来たことか。口が禍して大臣をやめる放言政治家がよくあるが、口が禍して、離婚になったり、職を変えた人もこの世にはどれほどあるかわからない。誰もが不自由な口を持っている証拠であろう。   続きを読む

光あるうちにー2.人間この弱きのも①

光あるうちに(三浦綾子)

 自己中心は罪のもとだと、わかしは書いた。自己中心的な人間は、自分が悪口を言っ時に、共に悪口を言わぬ相手を嫌う。自分が怠ける時、共に怠けない友をうとむ。つまり自分の共犯者(同調者)でない者は嫌いなのだ。 考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない存在は誰か。それは神である。だから、自己中心であればあるほど、神を嫌い、神を無視してやまない。この「神のほうを見ない」ことが原罪である。神を見たくない生き方、この姿勢を持って以来、人類はあるべき所から外(はず)れてしまったのだ。この自己中心は正に根本問題なのである。 むろん、わたしも自己中心の人間である。神を見つめて生きていきたいと決意しても、しばしばその決意がうすれ、神を忘れる。 例えば、わかしは酒を飲んでからむ人間が大嫌いだ。 「たかが新聞小説を書いているだけのくせに」とか、 「あんたはそれでも小説家のつもりかね、文学をやっているつもりかね」 などと言われると、たちまち憤りを感ずることがある。そんな時、わたしは神の方を向いてはいない。自分が可愛いだけの人間なのだ。そして、一緒に立腹してくれない三浦を恨んだりする。共犯者になってくれないことが面白くないのだ。 神に従って生きたい、信仰が強くありたいと願っていても、いつもこんなことをくり返す。それほど人間は、根強く自己中心であり、神を見たがらない者なのだ。 「三浦さんクリスチャンですって? 神を頼って生きるなんて、弱虫ですね。わたしは神になど頼らず、自分を頼って生きています。信じられるのは、自分だけですよ」。 こういう人は少なくない。でも、わたしは自分を信じ、自分を頼れるという人の顔をつくづく見てしまう。それほど、人間は「自分」というものを信じ得るのだろうか。それほどに、人は自分を頼り得るものなのだろうか。 わたしの知人に、娘時代から自分ほど賢く力ある者は少ないと信じていた人がいた。彼女は女子大を優秀な成績で卒業し、結婚して子供が生まれた。彼女はその子にたくさんの抱負を抱いて育てたが、子供は神経質で、体も弱く、わがままで、なかなか言うことをきかなかった。彼女はつくづくとこう言った。 「子供一人ぐらい、思いのままに育てられると思ったわ。親は子を育てることが使命なのに、それさえ充分に果たせない。なんて無力なのだろう」と彼女は嘆いた。わたしが「子供どころか、自分自身の短所さえ、なおす力を持っていないのよ、わたしたちって」って言うと、「本当ね。自分のことさえ思いどおりならないのに、子供が思いどおりになる訳ないのよね」と彼女は言った。 生来の欠点一つさえ直せない自分を、本当に頼りにできるだろうか。人間はみな弱い者なのである。 わたしは茶目っ気旺盛の人間で、時々人の手相を見てあげることがある。今まで、老いも若きも、男も女も、手相を見てあげると言うと、みんな素直に手を出した。見ていらないと断わられたことは一度もない。もしこの時、 「今年中に大病をする」 「事業は不振におちいりそうよ」 などとわたしが言おうものなら、かなリショックを受けるにちがいない。何の根拠もない言葉なのに、人はそれに動揺してしまう弱い者なのだ。今の週刊誌や月刊誌には、占いや姓名判断の類が実に多い。それだけ需要が多いということなのであろう。なぜそんなに、人々は占いの記事を読みたがるのだろう。それは人間が弱い存在だからである。それを読んでは、何の根拠もない言葉に、人は一喜一憂してしまうのである。姓名判断や、占いによって、はじめて自己発見をしたかにのようにさえ思ってしまう。元来わたしたちは弱いので、何となく占いを信じてしまうのだ。そして、何の裏付けのない言葉なのに、「そうかな」と受け入れてしまうのだ。   続きを読む