光あるうちにー序章②

 働くという字はにんべんに動くと書く。人のために動くということである。わたしたちに、もし生きる意欲がなくなっているとすれば、それは適当な仕事がないからではなく、人につかえる、人のために動く気持が失われているからではないのだろうか。生きながら死んでいる状態の人間、それは、人のためには決して動かない人間ではないのだろうか。働くことのない人間の心は死んでいる、とわたしは思うのだ。

 私の入院していた病院に睦子さんという患者が入院していた。彼女の部屋は個室だったが、決して金持ちの娘ではなく、美人でもなかった。重いカリエスで、10年もギブスベッドに臥たっきりだった。だが、彼女は自分の病気のことより、相手の病状を気づかった。会っただけで、こちらの気持がほぐされ、何か楽しくすらなった。まだ30代の女性なのに、心にしみる何とも言えないやさしい笑顔の人だった。彼女に会いに、患者さんや看護婦さんが病室を訪れるのもうなずけた頷けた。顔が暉いていて、単なる美人よりも、魅力的な美しさがあった。

 睦子さんは確かに病人で、長い間ベッドに臥ていて、何の働きもしていないように見える。だが彼女は多くの病人を慰め、力づけた。彼女がそこにいる。それだけで、人々は日々慰められたのだ。生きている人とは彼女のような人をいうのではないかと思った。

 わたしの所属する旭川六条教会の中西絹さんが逝(な)くなられた。農家の主婦で、教会の礼拝にも始終出席することのできない忙しい方だった。だが、この方の葬儀ご出席して、わたしは深く心うたれた。まだ小学校に入らないようなお孫さんまでが、通夜の時も葬式の時も、ハンカチをグッショリぬらして泣いていたのだ。そればかりではない。女性たちはもちろん、陽にやけた一見して農家の人とわかる老人や、中年の男たちも、時折目がしらをおさえ、鼻をすすり上げている姿があちこちに見られた。会葬者がこんなに多数涙を流す葬儀を、わたしはめったに見たことがない。小さな子も、大人も共に泣くというのは、確かに珍らしいこであった。

 わたしは、この中西絹さんは、小さなお孫さんにも、同業の人たちにも、あたたかい心で接し、忘れられないものを残して逝ったにちがいないと思った。無名の農家の主婦だったかも知れないけれども、彼女の葬儀には、人々の愛惜の情が満ち溢れていた。

 具体的には中西さんの生活をわたしは知らないが、この人はかけがえのない存在として、立派に命を全うしたのだと、しみじみと思わせられた。わたしの葬式の時、何人の人が泣いてくれるのだろうか。わたしは彼女を思って、時々そんなことを考えたりする。

 本当の意味で生きた人の死だけが、本当の死なのではないだろうか。生きているか、死んでいるか、わからない生き方では、本当に死ぬこともできないのかも知れない。

 

 

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