光あるうちにー2.人間この弱き者②

 健康を誇りとしていた男性が癌になった。健康な頃は、「体の弱いのは、精神がたるんでいるからだ。俺のような人間には、病気さえよりつくことができない」と、豪語していた。ところが、一旦病床に臥すようになると、彼はとたんに気が弱くなり、注射一本さされるのさえ怖がった。彼は見舞客が妻にこつ言ったのを聞いてしまった。「奥さん、力を落さないでくださいよ。癌でも治った人はいるんですからね」。彼は致命的なショックを受け、急激に病状が悪化して、短期間で死んでしまった。

 だが、わたしたちはこの人を笑えるだろうか。癌と言われても取り乱さずにいられる人が、何人いるだろうか。わたしたちの平静な心は、占い一つ、病気一つで破られ、動揺してしまうものでしかない。こんな弱い「自分」を信じたり、頼みにすることは、わたしにはとてもできない。真に頼り得る、信じ得る対象は、強い上に本当の意味で賢くなければならないと思うのだ。日常生活に起こる問題ですら、わたしたちは賢明に対処することがむずかしいのだ。だから、身の上相談は今や花ざかりで、人生相談から、進学相談、セックス相談まであるらしい。こんなふうにすぐに途方にくれ、人に相談しなければならない「自分」を、わたしはとても信頼することなどできない。
 「ぼくは必ず君を幸福にしてみせるよ」
 「わたしは一生、愛し続けます」
 と、古今東西の恋人たちは誓い合ってきた。他の人は変わっても、自分の愛だけは絶対に変わらないと信じて、たやすく誓ってしまうのだが、聖書には「誓ってはならない」と記されている。わたしたち変り易い人間は、そつ簡単に誓うことはできないということなのだ。二人きりの時は仲がよくても、子供が一人できると妻も変わり、夫も変わる。そこに小姑が同居したり、姑が同居したりすると、更に変わる。だから、仇同志が結婚したかのよつな夫婦も出現してしまうのだろう。
 こんなにも変わり易い人間を、どうして信じ頼ることができるだろう。力も賢さもない変わり易い「自分」などに頼れるはずがない。まして、弱い人間が作った刻んだ石像や木像、あるいは狐狸、馬の頭の類が、信頼の対象になり得るはずはないと思うのだ。
 「神を頼るなんて、三浦さんは弱い人ですね」。正にその通りで、わたしは確かに弱い。自分の弱さ、みにくさをよく知っている。いや、よく知っているなどと言えるほど賢くもない。
 キリストの12弟子の中に、ペテロという人がいる。単純率直な熱血漢で、わたしはこのペテロが弟子の中で一番好きだ。彼はイエス・キリストが十字架にかけられる前夜、胸を張ってイエスに言った。
 「たとい他の弟子たちがあなたを捨て去っでも、わたしはあなたを捨てません。獄はもとより、死ん       でもついて参ります」
しかし、イエスは静かにペテロに言われた。
 「ペテロよ、あなたは今日鶏が鳴くまでに、3度わたしを知らないと言うであろう」
 イエスはその夜、捕われの身となった。弟子たちは逃げ、ペテロは群衆と共に、恐る恐る離れた所からイエスを見守っていた。彼は他の人から、
 「お前も仲間だな」と言われた。
 「わたしはイエスという人など知らない」と彼は言った。

 更に他の人からも、同じようなことを言われたが、ヘテロは捕縛されるのが恐ろしくて、
 「いや、知らない」と言い張った。三度目もまた、
 「お前は確かにイエスと一緒にいた男だ」と言われた時、
 「あなたが何を言ってるのか、わたしにはわからない」と、あくまでもしらをきった。その時、鶏が鳴いた。イエスは振り向いて、じっとペテロを見つめられた。ペテロは、
 「死に至るまで、お伴します」
 と公言しながら、イエスの預言通りになったことに気づいて、外に出て激しく泣いた、と聖書には書かれている。聖書の記者は、人間がいかに弱い存在であるかを示したのだと思う。人間の弱さは、人間がいつかは死ぬ者であるということ以上に、認められなければならない。その弱い人間が、真に生き得る道、真に信じ頼るべきものをもつことができるかということなのだ。
 しかし、先ほどの使徒ペテロは、キリストの死後別人のようになって、投獄され、鞭打たれ、キリストを伝えるなと言われても、
 「人間に従うよりは、神に従うべきである」と、堂々と反論し、その後、彼は逆さはりつけにされて殉教していったのである。

 わたしたちは確かに弱い。しかし、神によって強くされ得る望みが人間にはあるのだ。

 

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