光あるうちにー2.人間この弱きのも①

 自己中心は罪のもとだと、わかしは書いた。自己中心的な人間は、自分が悪口を言っ時に、共に悪口を言わぬ相手を嫌う。自分が怠ける時、共に怠けない友をうとむ。つまり自分の共犯者(同調者)でない者は嫌いなのだ。
 考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない存在は誰か。それは神である。だから、自己中心であればあるほど、神を嫌い、神を無視してやまない。この「神のほうを見ない」ことが原罪である。神を見たくない生き方、この姿勢を持って以来、人類はあるべき所から外(はず)れてしまったのだ。この自己中心は正に根本問題なのである。
 むろん、わたしも自己中心の人間である。神を見つめて生きていきたいと決意しても、しばしばその決意がうすれ、神を忘れる。
 例えば、わかしは酒を飲んでからむ人間が大嫌いだ。
 「たかが新聞小説を書いているだけのくせに」とか、
 「あんたはそれでも小説家のつもりかね、文学をやっているつもりかね」
 などと言われると、たちまち憤りを感ずることがある。そんな時、わたしは神の方を向いてはいない。自分が可愛いだけの人間なのだ。そして、一緒に立腹してくれない三浦を恨んだりする。共犯者になってくれないことが面白くないのだ。
 神に従って生きたい、信仰が強くありたいと願っていても、いつもこんなことをくり返す。それほど人間は、根強く自己中心であり、神を見たがらない者なのだ。
 「三浦さんクリスチャンですって? 神を頼って生きるなんて、弱虫ですね。わたしは神になど頼らず、自分を頼って生きています。信じられるのは、自分だけですよ」。
 こういう人は少なくない。でも、わたしは自分を信じ、自分を頼れるという人の顔をつくづく見てしまう。それほど、人間は「自分」というものを信じ得るのだろうか。それほどに、人は自分を頼り得るものなのだろうか。
 わたしの知人に、娘時代から自分ほど賢く力ある者は少ないと信じていた人がいた。彼女は女子大を優秀な成績で卒業し、結婚して子供が生まれた。彼女はその子にたくさんの抱負を抱いて育てたが、子供は神経質で、体も弱く、わがままで、なかなか言うことをきかなかった。彼女はつくづくとこう言った。
 「子供一人ぐらい、思いのままに育てられると思ったわ。親は子を育てることが使命なのに、それさえ充分に果たせない。なんて無力なのだろう」と彼女は嘆いた。わたしが「子供どころか、自分自身の短所さえ、なおす力を持っていないのよ、わたしたちって」って言うと、「本当ね。自分のことさえ思いどおりならないのに、子供が思いどおりになる訳ないのよね」と彼女は言った。
 生来の欠点一つさえ直せない自分を、本当に頼りにできるだろうか。人間はみな弱い者なのである。
 わたしは茶目っ気旺盛の人間で、時々人の手相を見てあげることがある。今まで、老いも若きも、男も女も、手相を見てあげると言うと、みんな素直に手を出した。見ていらないと断わられたことは一度もない。もしこの時、
 「今年中に大病をする」
 「事業は不振におちいりそうよ」
 などとわたしが言おうものなら、かなリショックを受けるにちがいない。何の根拠もない言葉なのに、人はそれに動揺してしまう弱い者なのだ。今の週刊誌や月刊誌には、占いや姓名判断の類が実に多い。それだけ需要が多いということなのであろう。なぜそんなに、人々は占いの記事を読みたがるのだろう。それは人間が弱い存在だからである。それを読んでは、何の根拠もない言葉に、人は一喜一憂してしまうのである。姓名判断や、占いによって、はじめて自己発見をしたかにのようにさえ思ってしまう。元来わたしたちは弱いので、何となく占いを信じてしまうのだ。そして、何の裏付けのない言葉なのに、「そうかな」と受け入れてしまうのだ。

 

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