光あるうちにー1.罪と何か①

 小説「氷点」のテーマは「原罪」であると、朝日新聞にわたしは書いた。それ以来、「原罪とは何ですか」という便りが殺到し、会う人毎に同じことを聞かれた。わたしは、「人間か生まれながらにして持っている罪のことです」などと答えたりしたが、多分わたしのこの答えでは、充分にわかっていただけなかったのだと思う。ある人は、「性欲も、食欲も原罪だそうです」と座談会で語っておられ、わたしは困ったなあと思ったものである。

 「道ありき」にも書いたが、わたしは終戦後、西中一郎という男性ともう一人の男性の二人と、殆んど同時に婚約をした。先に結納を持って来た人と結婚すればよいと思っていた。そんな自分をわたしは悪い女だとさえ思わなかった。でももし、これが逆であったらどうであろう。ある男が、わたしと婚約し、同時に他の女と婚約していたとしたとしたら、わたしは烈火のごとく怒って、「不誠実!」「女たらし!」と、ありとあらゆる罵(ののし)りの言葉を以て攻撃したにちがいない。だが、わたしはそんな自分を格別、罪深いとは思わなかった。
 後に、わたしは真実な恋人であり、キリストヘの導き手である前川正を得た。彼からはは毎日のように手紙がきていた。そこに結婚したばかりの西中一郎があらわれた。彼は、もとの婚約者がまだ寝たままであることに胸を痛め、毎日のように見舞ってくれるようになった。彼には新妻があり、わたしには恋人の前川正がいたが、わたしは別段悪いことをしているとは思わなかった。もし前川正のところに、昔の婚約者であった女性が毎日あらわれたとしたらどうであろう。わたしは、前川正を裏切者とし、その女性を浮気者と憎んだにちがいない。
 わたしは後に、「罪を罪と感じ得ないことが、最大の罪なのだ」と知った。しかし、これはわたしだけの体験ではないのではないだろうか。時折、わたしは講演で話すことがある。「もし、子供さんが花びんをこわしたりしたら、どうするか。不注意だからよ、そそっかしいからよ、などと言って、自分はあたかも花びんも皿も一度も割ったことがなく、今後も一生割ることはないような顔つきで、叱るのではないか。しかし、もし、自分が割った時はどうするだろう。ちょっと舌を出した程度で、自分の過失はゆるし、決して、子供を叱る時のようには、自分を叱らない」と。
 くどいようだが、これは罪の問題を考えるのに重要なことなので、更に例を引いて考えてみたい。
 わたしの知人は、車で子供をひいた。彼は、急に飛び出してきた方が悪い。子供をよく躾けていなかった親が悪いと言っていた。ところが、その後、自分の子供が車にひかれて死んだ。彼は半狂乱になり、「こんな小さな子供をひき殺すなんて」と、運転手に食ってかかって殴りつけた。「金をどれだけ積んでも、子供は返らん。金など要(い)らん、子供を返せ」とわめき、手がつけられながった。
 これが、わたしたち人間の赤裸々な姿なのだと思うのである。
 わたしたちは、何人か集まると人の噂をする。噂という字は、ロヘんに尊いと書く。わたし流に解釈すると、噂とは、人を尊敬して語ることではないかと思うのだが、わたしたちのする人の噂というのは、人の悪口にはじまり、悪口で終る。それが噂であり、人に聞かれたくないような秘密を、あばくことが噂になっているのではないだろうか。そして、「ああ、今日は楽しかったわ。またね」と帰って行く。人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性なのだ。自分が噂されていたとしたら、「ひどいわ、ひどいわ」と口惜しがったり、泣いたりして、夜も眠られないのではないだろうか。
 自分がそれほど、腹が立つことなら、他の人も同様に腹が立つはずで、一晩自分が眠られないなら、相手も眠られないはずである。人を傷つける噂話を、楽しげに語るわたしたちは、一体どんな人間なのであろう。

 でも、わたしたちは自分を「罪人」だなどとは思ってはいない。むしろ、「わたしは、人様に指一本指されることはしていません」と、大ていそう思っている。それは、わたしたちは常に、尺度を二つ持っているからだ。
 「人のすることは大変悪い」
 「自分のすることは、そう悪くない」
 この二つのはかりが、心の中にあるからだ。これが、「自己中心」なのである。「自己中心」の尺度で、ものごとをはかる限り自分は悪くなく、決して「罪人」ではないのである。

 

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