光あるうちにー1.罪とは何か③

 わたしたちは、自分の罪を計る物指と、人の罪を計る物指と、二つを持っているとわたしは書いた。自分に都合のいいはかりを持っている。これが自己中心のあらわれである。この自己中心が罪のもとだと、わたしたちは教えられている。

 自己中心でない人は一人もいない。一人の人間がこの世に生きて行くためには、自分が自分を大事にすることはまさしく必要であって、それは「自己中心」とはちがうのだ。自己中心とは、つまるところ「人はどうなってもかまわない」ということであり、自分にとって都合のよいことが正しいことになり、都合の悪いことが正しくないことになるのである。
 三浦は酒も飲まず、たばこも吸わない。勤めていた時も、定期便のごとく十分と時間を違えず帰宅する。疲れていても、妻のわたしを指圧してくれる。決して女遊びなどしない。日曜には教会に行き、ひまひまには短歌をつくり、習字し、英会話の勉強をする。娯楽はたまに、わたしの弟が来たら、碁をつつ程度で、家にはテレビもおかない。

 こんな男性のそばにいる男性は、三浦が煙たいにちがいない。三浦のように真面目になりたいと思うよりは、三浦も自分と同じようになってほしいと思うのではないか。わたしの兄弟たちは、時折冗談に、「三浦のおにいさんを見なさいと言われるんでかなわんよ」と言うことがある。人間は元来、正しいことや、清いことが、あまり好きではないのである。もし好きならば、正しい人、清い人を煙たがったり、仲間はずれにしたりはしないにちがいない。自分と同じ程度の人と、わたしたちは仲間になる。その方が安心なのだ。むやみに正しい人がそばにいると不安になり、気持が乱される。
 たとえば、非常に正直な商人が、隣で商売をはじめたら、どうであろう。何のかけひきもない商売をし、帳面も一切嘘いつわりなく記帳し、税金の申請も真正直だとする。万事適当にしていた商人から見ると、こんな同業者はありかたくない。
 家庭の主婦も同じである。子供が生まれたから手が廻らないと言って、家の中の整理整頓や、夫の身のまわりにも手をぬいているとする。その隣に、子供を三人もかかえながら、家の中から庭の手入れまで立派にやってのける主婦が越して来たら脅威である。もはや、子供が一人できだからという口実は通らなくなるからだ。
 また、悪口の好きな人間は、その話にのって来ない人間がきらいである。「ね、あの奥さんつて、美人だと思って、つんとすましているわね」ときり出しても、「そうかしら。別段すましていらっしやらないわ。とにかく美しい方ですねえ」などと返事がかえってくるのでは、腹立たしい。つまり、自分に気持ちを合わせない人間、共犯者にならない人間はいやな人間なのだ。
 以上、くどいぐらい、わたしは人間の自己中心を書いてきた。それは自己中心が罪のもとだからである。
 「キリスト教は、人を罪人扱いにするから、きらいだ」という言葉を聞く。しかし、罪ある人間を罪あると言うことは、何と親切なことではないだろうか。病気の人を病気だと言わずに放っておいたら、どうなるか。やはり、病気の時は病気だと言ってもらった方が、わたしはありかたいと思う。

 

 

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