光あるうちにー序章③

 わたしはまる13年療養したが、一時期つくづくと自分は廃品同様の人間だと思ったことがある。ただ臥ているだけで、食事を用意してもらい、便器をとってもらい、洗濯をしてもらう。心配をかけるだけで、病状は一向によくならない。あと5年たった

ら治るのか、10年たったら治るのか、見当もつかない。そんな中で、こんな自分が生きていてよいのかと、つくづく考えずにはいられなかった。
 そのわたしに、「生きるというのは、権利ではなく、義務ですよ」と教えてくれたのは、幼馴染みのクリスチャン前川正だった。「生きるのは義(ただ)しい務めだ」と言われた時、わかしははっと立ち直らせられる思いがした。物品は廃物となっても、人間は決して廃物とはならないのだ。

 わたしのペンフレンドが、こんな手紙をくれたことがある。
 わたしはこの問、癖園(らいえん)に一泊して、そこの人たちを見舞おうと思ったのですが、かえって見舞われて帰って来ました。
 中でも、Aさんはすばらしい人でした。彼はもう50を過ぎて、目も見えず、指先もマヒして、舌で点字の本を読んでいました。彼が一人でできることは、呼吸をすることだけのようなのに、Aさんの顔は光り輝いていました。喜びに溢れていました。
その秘密は彼の枕もとにある点訳の聖書でした。

 わたしは感動しました。手が動かず、足が動かず、目が見えなくても、人間は人間なのだ。「人間は生きている限り、いかなる人間であっても使命が与えられている」という誰かの言葉がある。人からは、どんなにつまらなく見られる人間でも、神にとっては廃品的存在ではないのだ。どんなに頭が悪くても、どんなに体が虚弱でも、足がなくても手がなくても、耳が聞えなくても、口がきけなくても、目が見えなくても、精神薄弱児でも、重症身体障害者でも、神にとって、廃物的存在の人間は一人もいないのだ。みんな何らかの尊い使命が与えられているのだ。
 わたしは、これから神を信ずるために必要な、基本的な問題をとりあげて、書きつづって見たいと思う。神とは何か、キリストとは何か。罪とは何か。なぜ苦しみがあるのか。奇跡はあるか。救いとは何か。死とは何か。科学と宗教について。愛とは、幸福とは、生きる目的とはなどなど、わたしなりに平易に書いて行きたいと思う。そして、呼吸することしかできない人にさえ、光り輝く顔で生きることのできる力を与えてくださる神を、知っていただきたいと思う。

 前にも述べたように、わたしたち人間は必ず死ぬ。事故か、病気か、老衰か、とにかく必ず死ぬのだ。昨日よりも今日は死に近い。明日は今より更に死に近いのだ。
 もし、わたしたちの命が今日しかないとしたら、今日の一日はどんなに大切であることか。もし、全財産を投げ出して、明日もう一日生き得るなら、わたしたちはすべてを投げ出して明日の一日を買うだろう。それほど重要な一日なのに、わたしたちは、来る日も来る日も、漫然と送り迎えているような気がする。

 そのわたしがちに、本当の生き方を教えてくれるものが宗教である。世には一生神のことを考えずに生きる人もいる。しかし、何かは知らぬが、人間以上のものを求めつつ生きている人、神を求めつつ、ひたすらに生きて行く人もいる。
 わたしはクリスチャンである。キリスト信者の中では、まことに至らぬクリスチャンであるが、クリスチャンという立場に立って、信仰の話をして行きたいと思う。
 この小さな者の言葉が、何らかの役に立つならば、これにまさる喜びはない。

 

 

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