カテゴリー別アーカイブ: 本の広場

本から抜粋した記事を掲載しています

光あるうちにー3.自由の意義⑤

光あるうちに(三浦綾子)

 「自由な人とは、いつも死の覚悟のできている人である」(ディオゲネス)という言葉がある。とはいえ、自殺する人は、死に魅せられ、死に捉われた人であって、決して死から自由な人とは言えない。 わたしたち人間は、生への執着は、如何ともしがたいほど強いものである。死からは、なかなか自由になれないものではないだろうか。 わたしなど、甚だ命根性のきたない人間で、死は恐ろしい。いま、グラグラッと強い地震が来たら、どんなに自分はあわてるだろうとか、死を宣告されたら、がっくり来るのではないかとか、とよく考える。でも本当の自由人は、死からも自由でなければならないと思うのだ。  わたしの通っている旭川六条教会に、明治時代に長野政雄さんという信者がいた。この人は、旭川鉄道運輸事務所の庶務主任で、日曜日には教会学校の校長として、奉仕しておられた。実に信仰の篤い方で、感動的なエピソードの沢山ある方なのだが、この人は毎年、元日には遺言状を書かれたというのである。そして、その遺言状を、肌身離さず、常に持っておられたという。  明治42年2月28日、長野さんが名寄に出張した帰途、その乗っている車両が塩狩峠で突然、連結器の故障で分離逆走した。乗客は色を失って狼狽した。 その時、長野さんは直に凍りついたデッキに飛び出し、ハンドブレーキを廻して汽車を徐行させようとしたが、思うようにいかず、線路上に飛び降りて、自ら体を歯どめにして列車を止めた。長野さんは、このときまだ30才の独身青年であった。 この事件は、当時の旭川、札幌の人々を奮起させ、長野さんの写真と、常持していた遺書は絵はがきとなって売り出された。長野さんはわたしの小説、「塩狩峠」の主人公永野信夫のモデルである。 この長野さんこそ、真に死からも解放された自由人と言えるのではないだろうか。彼には線路に飛び降りる自由も飛び降りない自由もあったが、長野さんは飛び降りた。これこそ、死からの自由であり、人間の持つべき自由の極致であると思う。 「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」と、聖書には書いてある。わたしは本当に自由な人間であるかどうか。人間として持つべき自由を持っているか否か。その時に、わたしたちは、自分がいかに不自由な人間であるかを、謙遜に知ることができるにちがいない。 自分が不自由な人間だと率直に認めた時、わたしたちは、真の自由への道を歩みはじめているといってよいのかも知れない。   続きを読む

光あるうちにー3.自由の意義④

光あるうちに(三浦綾子)

 旧約聖書にヨセフという人の話がある。 ヨセフは独身で大変な美男だったが、彼は忠実であったので、主人は一切の支配を彼にまかせていた。ところがある日、主人の妻が、このヨセフを誘惑して言った。 「わたしと寝ましよう」 ヨセフは驚ろいて、激しく拒んだ。 「奥様。御主人様は、わたしにすべての支配をまかせ、おゆだね下さっておられます。この家の中では、わたしが支配人として重んぜられ、御主人様は、あなた様を除いては、何でも、わたしの思いのまま自由にしてよろしいとおっしやって下さいます。それなのに、どうして御主人様の妻であられるあなたと寝て、そんな大きな悪を行って、神に罪を犯すことができましようか」 だが、彼女は毎日のようにヨセフに言いよりましたが、依然としてヨセフは聞きいれずに拒んだ。そして、なるべく、彼女と二人になることも避けた。 ところがある日、ヨセフが用があって主人の家に入った時、彼女のほか家人が一人もいなかった。彼女はヨセフの着物を捕えて、 「今日こそ、わたしを抱いて寝なさい」 と言ったが、ヨセフはそれをふりはらって外へ逃げ、彼の着物だけが彼女の手の中に残った。恥をかかされた彼女は、直ちに家人を呼び、ヨセフの着物を見せて、 「ヨセフがわたしと寝ようとして、わたしの所に入って来たので、大声で叫ぶと、彼はわたしの声に驚ろいて、このとおり、着物をおいて逃げました。  わたしは幾度この場面を読んでも、ヨセフの人格に感動する。わたしたちの周囲に、これほど女性から自由な男性がいるだろうか。女に言いよられて、その手に陥らない男性は少ないように思う。 人間の持つべき自由とは、かかる自由ではないだろうか。人間の深い所まで、自由であるということはこういうことである。ヨセフは全人格が自由であった。 わたしたちは、自分の金を自分のために使う自由もあるが、人のために使う自由もある。人が困っているのを、見て見ないふりをする自由もあるが、積極的に助ける自由もある。人の過失をゆるさない自由もあるが、赦す自由もある。一日を怠惰に過ごす自由もあるが、勤勉に過ごす自由もある。妻子のある人を恋する自由もあるが、恋しない自由もある。夫を裏切る自由もあるが、裏切らない自由もある。 「人生とは選択である」という言葉がある。わたしたちの生活は、毎日が、かかる自由の中にあり、そのいずれを選ぶかは、全くわたしたちの自由なのだ。人間の持つべき自由とは、そのいずれを正しく選ぶかというところにあるのだと思う。 性欲からも、金銭欲からも、名誉欲からも、全く自由でなければ、わたしたちは肉欲のとりこ、金銭のとりこ、名誉欲のとりことなってしまうにちがいない。とりことは捕虜であり、そこに自由がないことは無論である。 ところで、わたしたちは、毎日いずれかの道を選びながら、辛うじて大過なく過しているわけだが、考えれば考えるほど、色々なことから自由になっていないことを思わせられる。   続きを読む

光あるうちにー3.自由の意義③

光あるうちに(三浦綾子)

 次に手。 手もまた不自由なものである。夫を見送って、さて洗濯をしようと思っていても、ついテレビのスイッチに手がのびて半日をつぶしてしまったといつ経験は、珍らしいことではないかも知れない。 この「自由」について四国のある地方で講演したところ、男子高校生が講演後、楽屋に来た。 「ぼくは高校生ですがタバコをのむのです。いけないと思っても、すぐタバコに手がのびるのです。どうか、このぼくのために祈ってください」。彼の真剣な態度に打たれて、わたしは祈った。 わたしが雑貨屋をしている時、ある主婦が万引をした。15円ぐらいのソーセージなのだ。わたしは黙っていたが、その後いく度も同じことをしているらしかった。一家の立派な主婦なのに、彼女の手はついつい動いてしまったのだろう。この人の手は何とも不自由な手であったにちがいない。 口よりも手が早い人間がいる。ついカッとして殴るといつ人間である。いつかこんな事件があった。 まだ4~5才の男の子が、父親の腕時計を、誤ってこわしてしまった。すると父親は怒ってその子を殴った。打ち所が悪かったのか、子供は死んでしまった。その父親は吾が子を殺したいほど憎かった訳ではないと思う。が、自制心を失って、力一杯殴りつけてしまったのだろう。まさか、自分の子は殺そうと生かそうと、自由だと思って殺したわけではあるまい。    次に足。 わたしは、7年間ほとんど立つことのない療養生活をした。その後、自分の足で立ち、歩いてトイレに行った時、わたしは何とも言えない大きな喜びを感じた。そして思った。(もし、病気が治って、どこへでも行けるようになったら、先ず教会へ行こう。そして、できるだけ病人の見舞をしよう) だが、いざ治ってみると、教会には毎日必ず行くようにはなったが、見舞にはなかなか行けない。今もつとめて病人の見舞を心がけているが、思ったほどには廻れない。疲れると、やはり自分の家で臥ていたい思いにかられるのだ。 もう50を過ぎた男が、 「今日こそ、まっすぐに家に帰ろつと思うが、ついバーに行ったり、女の所によったりして、思うようにいかない」と述懐したことがある。  わたしたちの足もまた、わたしたちの意志どおりにはなかなか歩いてくれないのである。  以上、目、口、手、足というように分けて書いて来たが、結局は、わたしたちは如何に不自由な人間ではないか、といつことなのだ。わたしたちは、本当に不自由な人間なのだ。 店の仕事もろくにせず、酒を飲みたい時に飲み、外泊したい時に外泊して、「俺は自由が好きだ」と言う男のことを書いたが、これぞまことに不自由な人間なのだ。  続きを読む

光あるうちにー3.自由の意義①

光あるうちに(三浦綾子)

 「キリスト信者になってしまったら、窮屈でしょう。わたしは自由に生きることができなくなるから、信仰はご免です」という人が、たくさんいる。「自由に生きる」とは一体何なのか。わたしたちは、本当に「自由」に生きているのか。そんなことを少し考えてみたいと思う。 わたしには長いこと、ギブスベッドに絶対安静を強(し)いられていた日々にあった。寝返りをすることもできず、食事は胸の上に膳を置いて、手鏡でそれをうつしながらとり、洗面も排便も、読書も書くことも、一切が仰臥のままであった。「さぞ、不自由でしようね」 わたしは満7年、そのベッドに臥(ね)でいたが、その間何百回となく、人々にこう言われた。確かにそれは不自由だった。しかし、体の不自由な人々は、ギブスベッドに臥ている人ばかりではない。世には手の不自由な人、足の不自由な人、目の不自由な人、口の不自由な人、耳の不自由な人と、実に色々な形で不自由な人がたくさんいる。 だが、この肉体の不自由さは、人間として断じて恥ずべきことではない。人間として恥ずべ不自由はほかにある。今はいろいろな意味で自由な時代ではあるのだが、わたしたちは、本当に自由に生きているのだろうか。  わたしの知っている人に、酒は飲みたければ朝からでも飲み、旅行したい時にはふらっと出かけ。外泊しても、家には何の連絡もしない人が居た。妻が苦情を言うと、「俺は自由が好きなのだ。一々俺のすることに文句を言うな」と、どなりつけた。 ある娘が、妻のある男と恋仲になった。その娘に親が忠告すると、彼女は言った。「誰を好きになろうと、わたしの自由でしょ。放っておいてよ」。 ある息子は、月給のほとんどを飲酒代に使ってしまった。母親が叱ると、彼はうそぶいた。「自分の働いた金を、何に使おうと俺の自由じやないか」。 これらの「自由」は、守られねばならぬ「自由」なのだろつか。二千年の昔、既に聖書にはこう書いている。「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由を悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい」 自由と放縦とはちがうし、わがまま勝手ともちがう。人間の持つべき自由は、決して前述のような無頼なものではない。 わたしたちは、ここまで考えて来て、自分は自由人であると、確信を持って言いきれるだろうか。先に、手、足、目、耳、口の不自由な人がいると書いたが、健康な体であるわたしたちこそ、実はまことに、手も足も、目も耳も口も、実は不自由な人間なのではないだろうか。   続きを読む

光あるうちにー2.人間この弱き者③

光あるうちに(三浦綾子)

 「わがパイオニア奮戦記」の著者で、キリスト教界に名の知れた信者、引田一郎さんという人がいる。 引田さんは6年間に実に3万キロ歩かれ(地球の1周は4万キロ程)、一枚のトラクトを配り歩いた人だ。車を走らせるのではない。ある時は零下32度の村を、ある時は30度を越える暑熱の街を、そしてある時は人も木も埋めつくす吹雪の野を、引田さんは讃美歌を歌いながら、トラククトを配るために歩きつづけたのだ。しかも、引田さんは不治と言われる重症のカリエスを12年も病み、その骨から溢れるよつな膿を排出しだ体の人なのである。 また、川口市に住む矢部登代子さんという人がいる。 彼女は10才から30年間、ただの一度も立ったことのない、関節を患う病人であった。しかしその顔は晴々と明るく輝いていた。彼女のベッドのそばには水道が引かれていた。彼女は腹這になって米をとき、一人で炊飯器でご飯を炊く。枕もとに電話とマイクもあった。登代子さんがキリストを信ずるようになってから、近所の子供たちを集めて日曜学校を開き、やがておとなの集会も持って、彼女に導かれて受洗した数は30名を超えるという。 もし、矢部さんに信仰がなかったとしたら、彼女は果して今日の矢部さんであったろうか。多分自殺を図り(事実、入院前の彼女は死を考えていたという)、自暴自棄になり、毎日愚痴を言いながら、暗い一生を送らねばならなかったであろう。 この立つこともできない彼女のもとに、噂を聞いた人々は全国から訪ねて来るという。そして、その美しく明るい笑顔に励まされ、元気づけられて帰って行くのである。たとえ30年間寝たっきりでも、人間はかくも大きな働きをなし得る者なのだ。 引田さんと言い、この矢部さんと言い、「神を信ずるなんて弱虫だ」などと、もはや誰が言い得るだろうか。   続きを読む

光あるうちにー2.人間この弱き者②

光あるうちに(三浦綾子)

 健康を誇りとしていた男性が癌になった。健康な頃は、「体の弱いのは、精神がたるんでいるからだ。俺のような人間には、病気さえよりつくことができない」と、豪語していた。ところが、一旦病床に臥すようになると、彼はとたんに気が弱くなり、注射一本さされるのさえ怖がった。彼は見舞客が妻にこつ言ったのを聞いてしまった。「奥さん、力を落さないでくださいよ。癌でも治った人はいるんですからね」。彼は致命的なショックを受け、急激に病状が悪化して、短期間で死んでしまった。  だが、わたしたちはこの人を笑えるだろうか。癌と言われても取り乱さずにいられる人が、何人いるだろうか。わたしたちの平静な心は、占い一つ、病気一つで破られ、動揺してしまうものでしかない。こんな弱い「自分」を信じたり、頼みにすることは、わたしにはとてもできない。真に頼り得る、信じ得る対象は、強い上に本当の意味で賢くなければならないと思うのだ。日常生活に起こる問題ですら、わたしたちは賢明に対処することがむずかしいのだ。だから、身の上相談は今や花ざかりで、人生相談から、進学相談、セックス相談まであるらしい。こんなふうにすぐに途方にくれ、人に相談しなければならない「自分」を、わたしはとても信頼することなどできない。 「ぼくは必ず君を幸福にしてみせるよ」 「わたしは一生、愛し続けます」 と、古今東西の恋人たちは誓い合ってきた。他の人は変わっても、自分の愛だけは絶対に変わらないと信じて、たやすく誓ってしまうのだが、聖書には「誓ってはならない」と記されている。わたしたち変り易い人間は、そつ簡単に誓うことはできないということなのだ。二人きりの時は仲がよくても、子供が一人できると妻も変わり、夫も変わる。そこに小姑が同居したり、姑が同居したりすると、更に変わる。だから、仇同志が結婚したかのよつな夫婦も出現してしまうのだろう。 こんなにも変わり易い人間を、どうして信じ頼ることができるだろう。力も賢さもない変わり易い「自分」などに頼れるはずがない。まして、弱い人間が作った刻んだ石像や木像、あるいは狐狸、馬の頭の類が、信頼の対象になり得るはずはないと思うのだ。 「神を頼るなんて、三浦さんは弱い人ですね」。正にその通りで、わたしは確かに弱い。自分の弱さ、みにくさをよく知っている。いや、よく知っているなどと言えるほど賢くもない。 キリストの12弟子の中に、ペテロという人がいる。単純率直な熱血漢で、わたしはこのペテロが弟子の中で一番好きだ。彼はイエス・キリストが十字架にかけられる前夜、胸を張ってイエスに言った。 「たとい他の弟子たちがあなたを捨て去っでも、わたしはあなたを捨てません。獄はもとより、死ん       でもついて参ります」しかし、イエスは静かにペテロに言われた。 「ペテロよ、あなたは今日鶏が鳴くまでに、3度わたしを知らないと言うであろう」 イエスはその夜、捕われの身となった。弟子たちは逃げ、ペテロは群衆と共に、恐る恐る離れた所からイエスを見守っていた。彼は他の人から、 「お前も仲間だな」と言われた。 「わたしはイエスという人など知らない」と彼は言った。  更に他の人からも、同じようなことを言われたが、ヘテロは捕縛されるのが恐ろしくて、 「いや、知らない」と言い張った。三度目もまた、 「お前は確かにイエスと一緒にいた男だ」と言われた時、 「あなたが何を言ってるのか、わたしにはわからない」と、あくまでもしらをきった。その時、鶏が鳴いた。イエスは振り向いて、じっとペテロを見つめられた。ペテロは、 「死に至るまで、お伴します」 と公言しながら、イエスの預言通りになったことに気づいて、外に出て激しく泣いた、と聖書には書かれている。聖書の記者は、人間がいかに弱い存在であるかを示したのだと思う。人間の弱さは、人間がいつかは死ぬ者であるということ以上に、認められなければならない。その弱い人間が、真に生き得る道、真に信じ頼るべきものをもつことができるかということなのだ。 しかし、先ほどの使徒ペテロは、キリストの死後別人のようになって、投獄され、鞭打たれ、キリストを伝えるなと言われても、 「人間に従うよりは、神に従うべきである」と、堂々と反論し、その後、彼は逆さはりつけにされて殉教していったのである。  わたしたちは確かに弱い。しかし、神によって強くされ得る望みが人間にはあるのだ。   続きを読む