「義人はいない、一人もいない」と聖書にははっきり書いてある。正しい人は一人もいないというのである。
わたしたちは日常、罪という言葉を、どのように使っているだろうか。
●法に触れる罪
泥棒、殺人、詐欺、傷害などから、収賄、贈賄、選挙違反などさまざまある。
●道徳的な罪
法律には触れないが、不親切、裏切、多情、短気、意地悪など、生活の中でお互いに迷惑をかけたり、かけられたりしている罪。
●原罪
宗教用語で、原語は「的はずれ」で、人問はもともと、神の方を見なければいけないのに、自分ばかり見ていることが的はずれなのだ。つまり、神中心であるべきなのに、自分中心であること。これが、わたしたちの原罪なのである。
わたしたちは刑務所に入っている人間よりは、自分の方が罪がないと思っている。だから、この世を大きな顔をして歩いてるし、刑務所を出てきた人を見ると、「あの人は刑務所にいたのよ。泥棒してたんですって。いやあねえ」と眉をひそめる。だが、果たして刑務所に入っている人間より、わたしたちは罪深くないかどうか、それは実はあやしいものである。
これも、時折、わたしは講演で話すのだが、たとえば、
「泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか」という問題がある。
わたしの教会の牧師は、ある日説教の中で、
「悪口の方が罪深い」とおっしゃった。
考えて見ると、泥棒に入られたために自殺した話は、あまり、わたしは聞かない。だが、大に悪口を言われて死んだ老人の話や、少年少女の話は時折聞く。
「うちのおばあさんつたら、食いしんぼうで、あんな年をしてても、3杯も食べるのよ」
とかげで言った嫁の悪口に憤慨し、その後一切、食物を拒否して死んだ話。
「A子さんはS君と怪しい仲だ」
と言いふらされて、死を以て抗議した話。
わたしたちのなにげなく言う悪口は、人を死に追いやり、生まれてくる子を精神薄弱児にする力があるのだ。泥棒などの単純な罪とは違う。もっとどろどろとした黒い罪だ。人を悪く言う心の中にとぐろを巻いているのは何か。敵意、ねたみ、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろの思いが、悪口、陰口となってあらわれるのだ。この世に、人の悪口を言ったことのない人はないに違いない。それほどにわたしたちは罪深いのだ。にもかかわらず、わたしたちは、その罪深さに胸を痛めることはほとんどない。
「罪を罪と感じないことが罪だ」
とわたしは書いた。こう書きながら、わたしは、わたしの罪に対する感覚の鈍さに燦然(りつぜん)としてくるのである。