11月終わりの30日の午後に、一人の方が尋ねてこられました。会うのは初めてだったのですが、電話では2度ほど話したことのある人でした。40代の男性の方で、家に上がっていただいて2時間ほど歓談の時を持ちました。
実はこの方、私が名寄にいた頃(24年間居ました)に、教会でやっていたテレフォンメッセージを聞き続けてくれていたのでした。私が鷹栖に来てからは、それが聞けなくなってしまってました。
ところが、それから10年以上も経過してから、その方から電話がありました。「『恵みのおとずれ』というテレフォンメッセージを聞き続けていた者ですが、あれを再開するつもいりはないですか」という問い合わせでした。
名寄の教会に問い合わせて、私が鷹栖にいることと、電話番号を知って、電話をかけてきたのです。でも、テレフォンメッセージが終了してすでに10年以上も経っていましたから、「何で今さら?」と私は思ったんです。テレフォンメッセージが聞けなくなった直後ならともかく、こんなに間が空いてからのことでしたから…。
私はその方としばらく電話で話した後にこう言いました。「ご期待に添えず申し訳ないのですが、今はもうテレフォンメッセージをする予定はありません」と答えて電話を切りました。
でも、その後でこう思ったんです。こういう電話が来たのは、その方にそういう思いを神様が与えたからではないのだろうか?、と。キリスト者というのは、いろいろな出来事を「偶然」とは考えずに、「何らかの神様のうながし?」と考えるクセがあるんですよね。それで、これもその一つではないかと思ったんです。「これは、テレフォンメッセージを始めなさいっていう合図なの?」と。
それから、ネットでそれに関する機材を探してみたところ、結構いいものが見つかったので、やっぱり「やれっ!」って言うことかなぁと、「あの時は断ったけれど、再開せよという合図ならば、やってみるべきだよね」と思い直して、機材を購入して始めることにしました。ところが、何故か続かず挫折してしまいました。
でも、今年の後半になって、方向性を変える発想が生まれてきて、今は0から話しの材料集めを始めています。そして、今は来年の4月からの再開を目指して取り組んでいます。一本の電話から始った、当教会の新しい取り組みです。