光あるうちにー3.自由の意義②

 先ず目から考えてみよう。
 わたしたちの目は、まことに不自由なものではないだろうか。人をそんな目で見てはいけないと思いつつ、思わず突き刺すような目で見たり、女の子の足に目をやるまいとしても、ついちらりちらりと目が行ったりする。なかなか自分の思いどおりに目は動かないものだ。
 わたしは元来目つきが悪い。ぎょろりとした目で人を見ているらしいのだ。自分としては好意に溢れ

たつもりの時でさえ、不愛想に人を見ているらしい。
 また、よいものを見ようとしても、なかなかそうは行かない。机の上に週刊誌と教科書が並んでいる場合、学生たちは、先ずどちらを見るだろう。わたしたちの目は、わたしたちの思いどおりにはならないものなのだ。もし一日でも、自分の目を自由に使える人間がいるとしたら、それはもう大した人物と言えるだろう。


 次に口。
 これもまたまことに不自由なものだ。「ハイ」という言葉すら、わたしたちは満足口言えない口を持
つている。キリストは、
 「然りは然り、否は否と言いなさい」
 と教えているが、「ハイ」と「イイエ」をハッキリ言えとすすめたものである。夫に対して、わたしたちはどれほど素直に「ハイ」と答えているだろうか。夫族にしても同じである。「イイエ」という言葉が言えないばかりに、「どうです、今日帰りに一杯飲みに行きませんか」という言葉に誘われて、つい午前様になったりする。
 また、わたしたちは、自分が悪かったと思っでも、なかなか、「ごめんなさいね」と言うことができない。この言葉一つでも、すらすらと思いのままに出すことができたら、人生の達人であろう。
 ある時、国鉄の列車の中で、一人の人が暴力団員に因縁をつけられ、ゆすられ、殴られていた。だが、その列車に乗り合わせた男たちは、誰一人、その暴力団の男に、「よしなさい」と言えなかったという。これぞ正に言う気(勇気)のない話である。
 「はい」「いいえ」「ありがとう」「ごめんなさい」「すみません」を、日常、自由自在に使える人間が果しているであろうか。いるとしても甚だ稀であるにちがいない。それほどわたしたちの口は不自由なのである。そのくせ、酒は節しようとしても口に入り過ぎ、食べ過ぎまいとしても、大食してしまうという次第である。
 新約聖書のヤコブの手紙3章に、「もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。舌を制し得る人は、ひとりもいない。それは制しにくい悪であって、死の毒に満ちている」とある。

 全くわたしたちは、「あっ、しまった」と、失言を悔やむことがどれほど多いことだろう。あんなことを言わなければよかったと、くよくよ思いなやむことがどれほど多いだろう。

 わたしたちの口は、今まで、どれほど多くの人を傷つけて来たことか。口が禍して大臣をやめる放言政治家がよくあるが、口が禍して、離婚になったり、職を変えた人もこの世にはどれほどあるかわからない。誰もが不自由な口を持っている証拠であろう。

 

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