光あるうちにー3.自由の意義④

 旧約聖書にヨセフという人の話がある。
 ヨセフは独身で大変な美男だったが、彼は忠実であったので、主人は一切の支配を彼にまかせていた。ところがある日、主人の妻が、このヨセフを誘惑して言った。
 「わたしと寝ましよう」
 ヨセフは驚ろいて、激しく拒んだ。
 「奥様。御主人様は、わたしにすべての支配をまかせ、おゆだね下さっておられます。この家の中では、わたしが支配人として重んぜられ、御主人様は、あなた様を除いては、何でも、わたしの思いのまま自由にしてよろしいとおっしやって下さいます。それなのに、どうして御主人様の妻であられるあなたと寝て、そんな大きな悪を行って、神に罪を犯すことができましようか」
 だが、彼女は毎日のようにヨセフに言いよりましたが、依然としてヨセフは聞きいれずに拒んだ。そして、なるべく、彼女と二人になることも避けた。
 ところがある日、ヨセフが用があって主人の家に入った時、彼女のほか家人が一人もいなかった。彼女はヨセフの着物を捕えて、
 「今日こそ、わたしを抱いて寝なさい」
 と言ったが、ヨセフはそれをふりはらって外へ逃げ、彼の着物だけが彼女の手の中に残った。恥をかかされた彼女は、直ちに家人を呼び、ヨセフの着物を見せて、
 「ヨセフがわたしと寝ようとして、わたしの所に入って来たので、大声で叫ぶと、彼はわたしの声に驚ろいて、このとおり、着物をおいて逃げました。

 わたしは幾度この場面を読んでも、ヨセフの人格に感動する。わたしたちの周囲に、これほど女性から自由な男性がいるだろうか。女に言いよられて、その手に陥らない男性は少ないように思う。
 人間の持つべき自由とは、かかる自由ではないだろうか。人間の深い所まで、自由であるということはこういうことである。ヨセフは全人格が自由であった。
 わたしたちは、自分の金を自分のために使う自由もあるが、人のために使う自由もある。人が困っているのを、見て見ないふりをする自由もあるが、積極的に助ける自由もある。人の過失をゆるさない自由もあるが、赦す自由もある。一日を怠惰に過ごす自由もあるが、勤勉に過ごす自由もある。妻子のある人を恋する自由もあるが、恋しない自由もある。夫を裏切る自由もあるが、裏切らない自由もある。
 「人生とは選択である」という言葉がある。わたしたちの生活は、毎日が、かかる自由の中にあり、そのいずれを選ぶかは、全くわたしたちの自由なのだ。人間の持つべき自由とは、そのいずれを正しく選ぶかというところにあるのだと思う。
 性欲からも、金銭欲からも、名誉欲からも、全く自由でなければ、わたしたちは肉欲のとりこ、金銭のとりこ、名誉欲のとりことなってしまうにちがいない。とりことは捕虜であり、そこに自由がないことは無論である。
 ところで、わたしたちは、毎日いずれかの道を選びながら、辛うじて大過なく過しているわけだが、考えれば考えるほど、色々なことから自由になっていないことを思わせられる。

 

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