光あるうちにー3.自由の意義③

 次に手。
 手もまた不自由なものである。夫を見送って、さて洗濯をしようと思っていても、ついテレビのスイッチに手がのびて半日をつぶしてしまったといつ経験は、珍らしいことではないかも知れない。
 この「自由」について四国のある地方で講演したところ、男子高校生が講演後、楽屋に来た。
 「ぼくは高校生ですがタバコをのむのです。いけないと思っても、すぐタバコに手がのびるのです。どうか、このぼくのために祈ってください」。彼の真剣な態度に打たれて、わたしは祈った。
 わたしが雑貨屋をしている時、ある主婦が万引をした。15円ぐらいのソーセージなのだ。わたしは黙っていたが、その後いく度も同じことをしているらしかった。一家の立派な主婦なのに、彼女の手はついつい動いてしまったのだろう。この人の手は何とも不自由な手であったにちがいない。
 口よりも手が早い人間がいる。ついカッとして殴るといつ人間である。いつかこんな事件があった。
 まだ4~5才の男の子が、父親の腕時計を、誤ってこわしてしまった。すると父親は怒ってその子を殴った。打ち所が悪かったのか、子供は死んでしまった。その父親は吾が子を殺したいほど憎かった訳ではないと思う。が、自制心を失って、力一杯殴りつけてしまったのだろう。まさか、自分の子は殺そうと生かそうと、自由だと思って殺したわけではあるまい。

 

 次に足。
 わたしは、7年間ほとんど立つことのない療養生活をした。その後、自分の足で立ち、歩いてトイレに行った時、わたしは何とも言えない大きな喜びを感じた。そして思った。(もし、病気が治って、どこへでも行けるようになったら、先ず教会へ行こう。そして、できるだけ病人の見舞をしよう)
 だが、いざ治ってみると、教会には毎日必ず行くようにはなったが、見舞にはなかなか行けない。今もつとめて病人の見舞を心がけているが、思ったほどには廻れない。疲れると、やはり自分の家で臥ていたい思いにかられるのだ。
 もう50を過ぎた男が、
 「今日こそ、まっすぐに家に帰ろつと思うが、ついバーに行ったり、女の所によったりして、思うようにいかない」と述懐したことがある。

 わたしたちの足もまた、わたしたちの意志どおりにはなかなか歩いてくれないのである。

 以上、目、口、手、足というように分けて書いて来たが、結局は、わたしたちは如何に不自由な人間ではないか、といつことなのだ。わたしたちは、本当に不自由な人間なのだ。
 店の仕事もろくにせず、酒を飲みたい時に飲み、外泊したい時に外泊して、「俺は自由が好きだ」と言う男のことを書いたが、これぞまことに不自由な人間なのだ。
 

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